女剣士・治療師:千葉佐那

カーティス・アブ著

はじめに

ここ数ヶ月、私は千葉佐那1という歴史上の人物について調べていた。佐那は武術に秀でていたことで有名で、また日本の平和な時代に飛びぬけて美しかったそうである。日本の古典武術、特に武道を修練している人は、おそらく彼女の名前を聞いたことがあるだろう。彼女は過去小説にも登場していたが、数年前に日本で放映された「龍馬伝」という大河ドラマで一躍有名になった。今回のブログでは、佐那の人生と、彼女が関与した出来事をまとめてみたい。

実際、千葉佐那について歴史的記録はあまり残っていない。彼女の物語の多くは、小説以外の日本の様々なウェブサイトで、断片的ではあるが紹介されている。「幕末新選組」、「坂本龍馬、そのゆかりと土地と人々」、「甲府市観光庁」、「北辰一刀流本部公式サイト」などのサイトを見れば、佐那のことや彼女の人生に起こった重要な出来事について垣間見ることができる。この中で唯一気になるのは、資料によって日付が異なることである。これは、日本の暦制度の違いに基づいて日付がどのように記録されたかということが原因の一つであると考える。私は、特定の出来事について言及されている佐那やその周辺人々の年齢などの正しい情報を得るため特別に注意を払った。

初期

1838年、千葉佐那は千葉家の第三子・二女として生まれた。幼名は「おとめ2」だったが、ある時「さな」に改名した。両親は父・定吉、母・タキ3。兄弟には兄の重太郎、姉の梅尾、妹の里幾、幾久、はまがいる。

千葉佐那と兄姉妹は江戸の八重洲で育った。父親は鍛治橋通りに現在「桶町千葉道場」で知られる道場を開き、後に道場を桶町に移した。定吉は北辰一刀流の道場主であり、そこで剣術や薙刀を教えていた。定吉の道場は、兄の千葉周作が経営する北辰一刀流の玄武館道場の分室であった。桶町千葉道場は、剣術の名門として知られている一方で、一般の人も含めて誰でも受け入れていた開放的な道場であったことも特徴的である。このことは、千葉道場の人気を上げ、他の道場からの参加者も含めて、多くの人が足を運んだといわれる。このことと、定吉が鳥取藩主池田家に藩士として召し抱えられていたことから、佐那の家は裕福な武家であったと考えられる。

 佐那は幼い頃から兄妹とともに北辰一刀流を学んだ。剣術など多くを学び、武術に惹かれた。小太刀使いが非常に得意で、14歳で小太刀術の免許皆伝を取得したと記録されている。姉は佐那に長刀を教え、定吉は長刀術の開発するため努力を惜しまなかったことが知られている。定吉は宇和島で勤務し、高松で稽古中に異なる相手と立合いをすれば技を試し、長刀技術を洗練させるために時間を惜しまなかった。この事からも分かるように、この長刀術の研究成果は、佐那の技能にも反映されている。佐那は武術家として活躍していた頃は、剣術師範、長刀師範となり、千葉家の武術を家族以外のものに指導していた。

卓越した武術の才能に加えて、佐那はその美貌にも定評がある。その美しさから、「千葉の鬼小町」、「小千葉小町」などと呼ばれていた。その両方の資質を示す一つの出来事が、伊達宗成の著書『稿本藍山公記』に記されています。佐奈が19歳の時、伊達家の剣術師範として宇和島藩に赴き、政子姫という娘に稽古をつけていたが、その間、第9代藩主となりつつあった伊達宗衛(当時27歳)と試合を行い、勝利を収めた。宗衛は体力的に負けただけでなく、彼女の美貌にも負けている。前述のように、書物の中では 「佐那は2つの伊達江戸屋敷に出入りする女性の中で一番美人である」5と書かれている。

龍馬との出会い

佐那の人生で最も注目すべきは、坂本龍馬という志士との関係である。1853年、土佐藩出身の郷士であった龍馬は、武術の修行のために桶町千葉道場(当時はまだ梶橋にあった)を訪れ、その門下生として北辰一刀流を学んだ6。弟子として迎え入れられ、北辰一刀流を学ぶ。佐那とその兄妹を先輩として、剣術や薙刀術を学びながら修行を積んだ。

 数年のうちに、佐那と龍馬は親しくなっていった。ある時、龍馬は師の定吉に佐那との結婚の許しを求めた。それが認められ、式を挙げて結納の準備を進めることになった。龍馬には結納品がなかったため、龍馬は紋付を作らせこれを纏った。佐那からは、龍馬へ短刀が贈られた。この時点で婚約が成立した。

1858年、婚約後しばらくして、龍馬は桶町千葉道場での修行を終え、すぐに土佐藩に戻り、他道場でも剣の修行を重ねた。しかし、佐那とはこの間音信不通になってしまう。1862年に佐那と再会することになる。龍馬は故郷を離れ千葉道場を訪れたという。その際、定吉が佐那に誓いを示すよう促したと言われている。龍馬は家紋の入った袖を佐那に贈ったと言われている。これで佐那と龍馬は夫婦として認められることになる。

しかし、それも束の間で、龍馬は佐那の兄・重太郎とともに江戸に向かい、幕府や特定の政治家との対立を煽るような政治運動を展開していくことになる。1864年楢崎龍という女性と出会い、1866年に正式に結婚する。

佐那は、彼の不在の間自分が妻であると信じていたと言われており、龍馬が他の女性と結婚していたことを知らなかった。1868年に暗殺者の手によって龍馬の早すぎる死を知った佐那は自殺を図った。しかし、父に止められる。彼女は龍馬の片袖を、二人が結ばれた証として、大切にするのだった。

事業投資

1871年、千葉家の状況は一変した。佐那の父が当主を退くことになった。二代目の血を引く重太郎は鳥取県へ出仕したため、養子の東一郎が三代目後継者となり、千葉道場の経営を許可される。程なくして、佐那と東一郎は玄武館道場の千葉修之助と共に千葉撃剣会を発足させた。撃剣は、現在の剣道の古い形式であるが、競技のために人気を博し、注目を集めた。千葉撃剣会には、様々な流派の剣士が登録し、千葉道場の門下生も登録していた。千葉道場全体の門下生の数は飛躍的に増加し、千葉道場は長年にわたって繁栄した。

ある時、佐那は家を飛び出し、横浜に長屋を購入する7。大家となり家賃を得て生計を立てた。明治6年(1873)、佐那は同じく横浜に住んでいた山口菊次郎と交際する。明治7年(1874)に結婚し、明治9年(1876)まで続いたが、個人的事情から二人は別の人生を歩むことになる。それと同時に彼女は長屋を手放し、横浜を離れた。転居の必要があった彼女は、数年前に千葉家に仕えていた徳兵衛に連絡を取り、川崎の徳兵衛宅に滞在した。

川崎にいた頃から、佐那は灸治療を始める8。幼少期に父親から伝授されていた。伝授が正しく実行できることを再確認した佐那は開業し、人々の治療に精を出してはその効用に評判が広がった。

明治16年(1883)、佐那は兄の重太郎に同行して江戸に向かった。重太郎が剣術師範を続けていたのに対し、佐那は華族女学校9の舎監となった。卒業生たちに故坂本龍馬との関係を明かし、絆の証としてもらった記念の袖を見せた。余暇を利用して灸治療を続けていたことが、佐那の治療技術を繋げたようだ。

療養者としての孤独な生活

明治18年(1885)、重太郎が61歳で他界、佐那はその後も舎監を続けたが、明治21年(1888)に舎監を引退した。千葉家の後継者をめぐって親族間で争いが絶えなかったため故郷に帰ろうとはしなかったが、才能を生かして千葉家の後継者となった。その代わりに、治療の才能を生かすために小さな建物を借りて、江戸足立区千住で「千葉灸治院」を開業した。多くの人が治療に訪れるようになり、業績は好調に上がっていった。一時は役所の工事のために移転しなければならないこともあったが、事業は順調に進んでいった。

佐那の治療が評判となり、遠方からも多くの人が訪れるようになった。坂本龍馬と同郷の政治家、板垣退助が灸治院を訪れた。佐那の診療内容を知り、知人の治療を依頼した。その後、板垣の勧めで、友人の小田切謙明とその妻・豊次も佐那の灸治院を訪れた。治療を受けているうちに、佐那と小田切夫婦の間には、佐那に家族がいないこともあって、深い友情が芽生えた。豊次は「亡くなったら、山梨県甲府市の清雲寺にある小田切家の墓に入ってもらいたい」と申し出た。そうすれば、定期的に墓の手入れをしてもらえるし、あの世で一人になることもない。佐那はこれに同意し、豊次は約束通り手配した。

 佐那には子はなかったが、1892年、甥の勇太郎を養子に迎えた。勇太郎は、事故で亡くなった佐那の妹・幾久の長男だった。勇太郎は1895年まで佐那と暮らしていたが、体調不良のため26歳で他界した。晩年は殆ど一人暮らしであったが、兄弟姉妹とは良好な関係を保ち、その子供たちとも連絡を取り合っていた。

 佐那は1896年に他界した。享年59歳。彼女の遺体は、清運寺の埋葬地に移された。興味深いことに、千葉灸治院は家業として維持され、1970年代に入っても千葉家の親族の手によって経営されていた。

佐那の名前

佐那という名前の書き方は2通りある。坂本龍馬に与えられた『北辰一刀流目録』には、漢字で「佐那」と書かれている。現在でも碑や看板にはこれが使われている。ただし、位牌には「佐奈」とされている。‘な’の漢字の違いは不明だが、位牌の場合はどちらの漢字を使ってよいかわからなかった可能性がある。いずれにしても、どちらの漢字でも佐那を特定することができる。さな子という名前については、山梨県甲府市の清運寺の墓に書かれた表記。最初の2文字はひらがなを用いている。

多才な佐那

文久3年(1863)に龍馬が姉の乙女に送った手紙から、佐那が得意としていた他の才能について知ることができる。剣術や療養の他にも、馬術や絵画、琴などにも精通していたという。他にもあったかもしれないが、これまでに明らかになっていることはこれだけ。

写真・肖像画

ネット上で、佐那だと信じられている写真を見つけることができる。しかし実は、それらは佐那ではない。興味深いことに、生前に撮影された写真がない。これは珍しいことではない。研究者たちは、未だ彼女の家族から佐那の公式な画像に出くわしていない。

以下に、彼女と間違われている2つの一般的なものを紹介しよう。

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斎藤きち (ウィキペディア)

この写真は1800年代の芸者で美容師の斉藤きち。『唐人お吉』の愛称で親しまれている。きち19歳の時に撮影。

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楠本高子  (ウィキペディア)

この写真は、日本で初めて西洋医学を専門とした楠本イネの娘・高子。これは明治5年(1872)に撮影されたもので、高子は20歳。

この2人の女性の略歴は日本では公式なもので、日本のほとんどのサイトでは既に佐那について言及していないが、残念ながら日本以外の一部のサイトでは、まだ言及しているものがある。このブログが、この件についての認識を高め、この2人の写真がこれ以上誤って使用されることがなくなるよう願いたい。

撃剣会と謎の浮世絵

現在の北辰一刀流本部が発表した文書の中で、佐那は千葉撃剣会の発足に関与したと述べている。この設立は、撃剣の人気を取り戻し、武術への関心を再活性化させるのに重要な役割を果たした。日本が明治時代(1868~1912年)に入ると、政府や国民の方向性や生活様式が大きく変わった。時代がはるかに平和になり、人々は仕事を含めた先進的な生活手段を重視するようになった。

武術に対する関心は急速に薄れていき、ほとんどの流派が戦での実践向きの闘いを前提とした技術を教えていた。1800年代後半から半ばにかけて起こった数々の事件により、多くの人が武術との関わりを回避するようになっていった。沢山の道場が廃業し、流派が忘れ去られ、武士階級は時代遅れになりつつあった。一方、千葉撃剣会は、競技環境の中で武道の精神を適用するための新しい方向性を与えた。

長刀をもった女性が竹刀をもった男性に対抗するという有名な錦絵がある。これは千葉道場での撃剣の様子を描いたものである。長い間、この女性は千葉佐那と言われてきたが、未だに100%の証明はされていない。問題の一つは、この女性の横の名前が違うことである。

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千葉佐那と言われた錦絵に関する新聞記事 (朝日新聞:記事リンクはこちら)

2010年2月13日の朝日新聞に、研究者がこの錦絵の件について詳しく調べたという記事が掲載された。描かれた女性の横には「千葉貞女」と書かれており、『女』と書いている。一説には、定吉の兄で玄武館道場の初代道場主である千葉周作の孫である千葉貞ではないかという説もある。しかし、記事には、周作の家系の女性が撃剣会にいた記録はないと書かれている。また、千葉撃剣会に名が残っている女性は3人しかおらず、佐那はそのうちの1人と考えられている。さらに、「千葉貞」を名乗った女性の記録はないようだ。

なぜ佐那に「千葉貞」という題をあてがったのか?私の個人的な推測だが、これは名前ではなく、佐那への敬意をこめた言葉である可能性が高い。「千葉貞女」という字をもう一度見てみると、貞(てい)と女(おんな)を一緒に読むと、「徳のある女 」という意味になる。ということは、 「千葉家の徳女」と書かれているのかもしれない。なぜ「貞女」が省略されたのかは謎だが、歴史的・芸術的作品、特に女性の作品では個人名が省略されることは数多くある。

千葉家の女剣士たち

龍馬の『北辰一刀流目録』には、千葉家の者の名前が記載されている。次の通り。

千葉周作 、千葉定吉 、千葉重太郎 、千葉佐那 、千葉里幾(りき) 、千葉幾久 (きく)

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目録に記載された名前。赤線で囲って表示した。右から左、上から下に読む。
注:佐那と妹たちの名前の下に「女」と追記してある。この三人が女性であることを明確にしている。

佐那と並んで、妹の里幾と幾久の名前も書かれている。これは、彼女たちも北辰一刀流を学んでいたことを示している。彼女たちがどの程度のレベルに達し、どのくらいの期間修行したのかは書かれていないが、佐那が北辰一刀流を学んでいたことがわかる。しかし、千葉家の女性で修行していたのは佐奈だけではないことがわかる。この中には、姉の梅尾(うめお)も含まれており、佐那は彼女から長刀術を学んだ。

佐那の武術について

北辰一刀流~千葉家」というサイトでは、佐那は「十六歳のときに高松藩侯夫人の前で武技を披露して賞賛された」と書かれている。しかし、その詳細については情報が不足している。

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サイトのスクリーンショット。武技についての言及部分を赤線をひいた。

例えば、高松藩は江戸から遠い四国の香川県に位置する。1664年に高松藩初代藩主松平頼重(旧常陸国出身、現在の茨城県の一部)が江戸に武家屋敷を構えて居住していたが、後継者が同じ屋敷を利用していたかどうかは不明である。また、佐那がどのような武技(技の披露なのか、一対一の立会なのか)をしたのかも不明である。これらの不明な部分は、これから見つかるかもしれない事実の為に、可能性をあけておかなければならない。

千葉佐那については以上です。晩年まで活躍した千葉佐那は、沢山の歴史的に重要な出来事に囲まれた人生を送っていたので、もっと確証とした記録があるはずである。このブログが参考になったこと、楽しい読み物であったことを願っています。

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  1. 千葉さな、佐那、佐奈、さな子とも書かれる
  2. 乙女
  3. 瀧子とも呼ばれる
  4. 江戸日本橋室町にあった「玄武館道場」の分室であったことから「小千葉」とも呼ばれた。定吉の兄である周作が開いた道場玄武館道場は「大千葉道場」とも呼ばれた。周作の方が年上で先に道場を開いたため、周作の道場は主道場とされ、定吉の道場は小道場とされていた。そのため、玄武館に入るにはある程度以上の技術の者のみが入門でき、技術の低い者は桶町千葉道場に入門が許された。
  5.  ウィキペディアに掲載されているように、原文はこのように書かれている。「左那ハ、容色モ、両御殿中、第一ニテ」現代語に訳すと、「佐那は2つの伊達江戸屋敷に出入りする女性の中で一番美人である」という意味である。これは、伊達家の2世帯の女性のことを指し、宗衛が佐那をどれほど美しいと思っていたかを示している。
  6. 桶町千葉道場で二度の修行を積んだ。1853年入門し、1854年に一度土佐藩に戻る。その後、千葉道場は地震で大火事に見舞われ、1855年に桶町に移転した。龍馬が1856年に戻った時には既に新道場ができていた。
  7. 佐那が横浜に移った理由にはいくつかの説があるが、それを裏付ける具体的な証拠はない。例えば、佐那の妹の一人がその長屋に住んでいたので、佐那が購入したという説もある。
  8. 徳川斉昭直伝と呼ばれている。これは千葉家に伝わる灸法で、水戸藩主徳川斉昭から伝えられた。定吉は兄の周作から学び、佐那や重太郎に伝えた。
  9. 学習院の前身

 

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